『天気の子』を賛否両論してみる

ミーハーなので新海誠映画の『天気の子』を見てきました。
前情報で、監督自身が賛否両論のある映画にしたよといっていたり、Twitterでも
「俺達の新海誠が帰ってきた~😂」などと新海オタクがつぶやいていたのを含みながら鑑賞しました。
以下ネタバレありで


最初に批判して最後にめっちゃほめます


初見感想

初見の正直な感想としては、いまいち盛り上がりどころがなくて設定も雑なよくわからない映画だと思いました。
音楽を使って盛り上がりどころを演出するのは前作『君の名は。』で確立された手法ですが、どうも前後の展開から音楽が浮いてしまっている感じがしました。
その原因は、設定の雑さと不透明さに求められると思います。特に天気の御子の設定はあまり詳しく語られず、よくわからないけど浮いたりワープしたり、
御子になったりならなかったり、身体が透明になったりする部分はそういうものなのか~として飲み込んでみるしかありませんでした。設定が悪いというよりも、情報があまりに与えられていないので、登場人物の思想・行動など、観客の理解は後手後手にまわってしまい、それってそういうものなのね、と受け入れるしかありませんでした。そのせいで、おそらく監督が「賛否両論であるだろう」とした(?)少年の決断が薄いものになっていると感じられました。メインヒロインの陽奈と東京を天秤にかけて陽奈をとる、というシナリオはロマンチックで魅力的ですが、対象が東京というのも微妙で、例えば自分の指10本とか腕1本とかのほうが重いのではないかと思います。自分の大好きな女の子VSあまり思い入れのない東京、勝負になりません。東京に住んでる人からすれば迷惑かもしれませんが、16歳男子離島在住であれば当たり前の選択です。雨模様でも陽奈ちゃんが唯一の太陽になるわけです。最後に須賀さんの心を動かすために、そもそも少年の決断に重みを与えるつもりがなかったのかもしれませんが。
結局、陽奈は天気の御子としての力を失い(?)、3年後水没した東京で再会するのは、『君の名は。』まんまでした。全体的な構成としても『君の名は。』と非常に似通っています。馴れ初め→危機→救出→離別→再会の流れとか。
終わり方としてはノーマルエンドぐらいだと思います(バッド・ノーマル・ハッピー段階評価)。
エロゲ・ギャルゲの文脈で考えると、陽奈を人柱としてそのままにしておくのがバッドエンドでしょう。といっても、そんな選択ができる主人公は異常です。『Fate』シリーズの衛宮士郎ぐらいでしょう。この主人公にもそれぐらいのバックグラウンドがあったら面白かったかもしれません。ゲームにするとしたら、あえて助けにいかないとかではなく、道を阻まれて助けにいけず離れ離れに...といった感じでしょうけど。ハッピーエンドは、天の機嫌がよくなって雨も降り続けず東京も沈まないエンド...ですかね?。しかし、東京が沈んでも沈まなくても2人は3年後に再会するだろうし、この物語はハッピーエンドな気がしてきました。陽奈の罪悪感云々の問題があるかもしれませんが、劇中で語られませんでしたし。
ほかには、仕方ないかもしれませんが、スポンサー商品が結構露骨でしたね。雰囲気を壊してるわけでもないのでいいですが。
君の名は。』から、四葉がどこかに出てたらしいですが、わかりませんでした。3年過ぎ去ってて見た目も違うだろうし映画館で探すのは難しそうです。ソフトバンクのお父さんは探してなかったです。
新海誠作品なので言うまでもないですが、絵は非常ううううに美麗でした。水たまりに水が落ちる各フレームがとても丁寧です。雨の歌舞伎町、いいですね。水没した東京や、空から落ちる絵など、描きたいシーンから強引に脚本を考えたのかもしれません。

ゼロ年代エロゲとの関連

Twitterで感想を漁っていると、よくゼロ年代エロゲとの関連性が指摘されていました。私が見ながら想起していた作品は『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『AIR』、『CARNIVAL』があります。これ以外にもいろいろな作品からのオマージュがあると思うので、見つけたら教えてください。
リトルバスターズ!』は、「わたしとあなただけが世界の秘密の知っている」という世界の存亡に関わる秘密を握っている男女(リトバスは男ばっかですが)という点で共通しています。前情報で「世界の形を...」と聞いたときから『リトバス』か~??と思いながらお話を妄想していました。観るときも叙述トリックや劇中劇エンドに気をつけながら見てましたが、どれも空振りました。
CLANNAD』は、陽奈の身体が空とつながっている、のところから渚とあの町だな~って思いました。それだけです。しかも『CLANNAD』はエロゲではありません。人生です。
AIR』は、かなり思い出させてくる場所が多いです。『AIR』のラストで呪いがなくなり、これから新しい歴史が始まろうとしている場面は、まさに天気の御子の能力を失い、3年越しに再会した主人公と陽奈ですね。また、翼人の設定と天気の御子の設定にあまり共通点はありませんが、「空」が重要な役割を果たしている点でリンクしていると思います。
『CARNIVAL』、偶然拳銃を手にするところががっちりはまります。ゼロ年代エロゲは拳銃が登場する作品が多いらしいですね。ニトロプラスのせいかもしれませんが。
さらにKeyからは、エロゲじゃないですが『Charlotte』の終盤も雰囲気は似てると思います。
監督の関わった作品からだと、minoriの『eden*』かな。あ、これは関わってなかった...。


最初に散々批判してしましたが自分の中では上記すべての批判に対する答えがあります。

テーマ考察

この作品は、対立構造として子供VS大人の構図があります。子供側は主人公、凪、陽奈、大人側は警察、須賀、夏美という感じで。須賀さんは、大衆に適応して正しい倫理を身につけ、社会にとけていくことが大人であると主張していました。一方子供側は、人間の本能に忠実で、凪は女遊びに興じていますし、主人公は超自由に生きています。しかし、陽奈は夏美に「はやく大人になりたい」と吐露していました。弟を養わなければならないのに、バイトに生活に不自由していたのが理由でしょう。これはホテルの夜に人柱として空に行った理由の一端でもあると思います。陽奈が年齢詐称していたことからも伺えます。
ここからは想像です。
作中で老婆は、空の上は黄泉そのものである、と言っていました。ならば、陽奈が人柱となり大人としての役割を果たす、ということは「黄泉」は「大人の世界」の暗喩と捉えることができます。
テーマ曲が流れているあのシーンで、2人は重力のままに落下していますが、あれは「大人になることへの拒否」と「エゴの肯定」の意図とも見れます。
さらに強引に解釈を進めると、子供から大人になることは「死」であると言えます。
ここでいう「死」は、肉体的な死と違い、不可逆なものではありません。
それは終盤での廃ビルの須賀さんが、社会的倫理に反した行動をとったことからわかります。夏美は始終子供側の味方だった気がしますが。
そして最後にそのエゴでもってして、多くの人々が住む、ややメタなことを言うとスポンサー会社も多数ある、東京を海に沈めました。
沈んだ東京で、須賀さんや瀧くんのばあちゃんは、「世界はもともとおかしい」「もとに戻っただけだ」と言っています。


以上のことを踏まえてやや発想を飛躍させると、この作品は『君の名は。』のヒットを受けての監督の表明そのものの映画だったのでは?と思います。
「大人になること」は大衆への迎合を表し、「子供であること」はエゴを貫くことを表しています。
君の名は。』は大成功したけれど、それは偶然で、大衆に媚びずにこれからも自分のエゴを通していくぞという表明を自分を主人公とした物語にし、そっくりそのまま映像にした映画だったのだと思います。
ホテルで凪たちが歌っていた『恋するフォーチュンクッキー』や『恋』なども大衆受けの代表として出されているのかもしれません。
大衆に迎合した作品を作ることを「死」と断じながら。
君の名は。』の登場人物、さらにはスポンサーを露骨に出してましたが、もろともすべて海に沈めてしまいましたしね。
君の名は。』は大衆受けを狙ったけど、これからはそうしない、『君の名は。』との決別といった意味がありそうです。
陽奈の「晴れを望んでいる人がこんなにいるなんて」の発言は監督の前作を受けて期待されていることを表していそうです。
これを踏まえると、
主人公 ←→ 監督
凪   ←→ 監督の仲間とか美少女ゲームそのもの?いろいろ考えられる
須賀  ←→ 闇人格監督(または先人の映画監督)
陽奈  ←→ 監督の推し、思想、理想
警察  ←→ 批評家の方たち
夏美  ←→ (わからん)
アヤネ、カナ ←→ 声優
のような対応があるのでしょうか。
警察が無能なのも凪が有能なのも脚本の疑問もこの対応をみると頷けます。
物語として観ると、やはり雑な部分が目立つのですが、前述の通り、描きたいシーンから強引に脚本を考えていたようなきらいがあります。
そこも強引に通したと考えると、雑なシナリオすら立派な伏線(?)ですね。


「天気は人間の都合を考えない」なんて作中のセリフがありましたが、この映画でいう天気というのは、恐らく監督の作品が売れるか売れないか、なんだと思います。強引に天気を晴れにしてきた陽奈が黄泉に身体をとられて行くのは、その分大衆に染まっていくことへの暗示なのかもしれません。大衆に迎合さえすれば売れるという監督の自信の顕れとも取れますが。
主人公が離島に帰って3年、東京は雨続きで瀧くんの家が沈んでいましたが、これは『君の名は。』の貯金がなくなったことを意味する最悪の状況を暗喩していると考えられます。「天気は人間の都合を考えない」ので、作品が売れる売れないは予測できず、あの世界は考えられる限り最もよくない結末になっているのですが、映画の最後で、僕たちは大丈夫と言っていたので、これからこの作品がどんなに批判されても、これからどんなに作品が売れずとも、これからどんなに雨が続いても、監督は好きなものを描き続けるのでしょう。こんな映画を作るあたり、やはり『君の名は。』のヒットを相当重く受け止めていたのでしょう。

「天気の子」というのは、監督の作る映画そのものだったんですね。

まとめ

上の考察を頭に入れながらもう一度見に行きたい気もしてきました。
独立した一つの物語として観ると粗が目立ちますが、新海誠作品の一つとして見ると力強いメッセージを持った作品だと思います。
あ、これが賛否両論か~。